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足助町(あすけちょう)は、愛知県豊田市の町名。 == 概要 == 豊田市のほぼ中央部に位置し、足助地区(旧東加茂郡足助町の町域にほぼ相当する)に属する。 下山方面より北進してきた矢作川支流である巴川が大きな迂曲を経て西に進路を変える付近、及び寧比曽岳から複雑に蛇行しつつ西進してきた足助川の下流域から巴川に合流する付近にかけて位置する。 *北部 ::城山(標高353メートル)をはじめとし、稲荷神社が鎮座する足助山、中世に古城が立地したといわれる観音山、御嶽教天王教会の境内をなす池田山といった深い山野が広がっている。足助川支流であるおせん川に沿った急坂で狭い市道が唯一北部方面との直通の連絡路となっており、他は国道153号の足助バイパスが山林の南麓沿いを東に向かって、足助トンネル・観音山トンネルを経ながら突っ切っている。 *中央部 ::西から東へと国道153号が貫通しており、沿道のほぼ全域を通じて足助市街地が形成されている。字狭石(せまいし)の足助大橋西交差点で足助バイパスが左に分岐、字飯盛(いいもり)で国道420号が分岐、字八万(はちまん)の今朝平交差点で主要地方道である愛知県道33号瀬戸設楽線と分岐する。また、桑田和町より愛知県道33号と重複しながら西進してきた愛知県道366号小渡明川足助線が今朝平橋付近で分岐して足助市街地に入ってくるが、市街地内でのルートは旧伊那街道のそれをほぼ踏襲したものである。 ::国道153号は西部では巴川右岸に、字宮ノ後(みやのあと)の巴橋以東の町域中央部では足助川下流域左岸に、今朝平交差点以東では足助川支流である今朝平川右岸にほぼ沿って走っている。足助川下流域付近から巴川合流部にかけては谷地形であり、河岸段丘がとりわけ右岸で比較的広範囲に形成されている。 *南部 ::足助川最下流部と屈曲した巴川に堀のごとく取り囲まれた独立丘陵の飯盛山(標高254メートル)がそびえ、飯盛山以南から真弓山(標高307メートル)を経て室口川流域に至る地域が、おおむね町域南部となる。南西部には飯盛山を含めて愛知高原国定公園の一角をなす香嵐渓(こうらんけい)と呼ばれる渓谷地があり、香嵐渓の東隣では国道420号が巴川に沿ってひたすら南進してゆく。さらにこの国道420号の東側には真弓山があり、以東の深い山野に連続している。なお、室口川に沿って南進する市道は綾渡町の名刹曹洞宗平勝寺へと続く古来からの道筋でもあり、長い参道の随所に33体の観音像が祀られている。 旧東加茂郡、旧足助町における行政・経済・文教の中心地であり、現在では豊田市役所足助支所が置かれている。また現在の豊田市足助町の町域は、 2005年(平成17年)の旧足助町の豊田市への編入に際し、大字足助に大字今朝平(けさだいら)、大字中之御所(なかのごしょ)が編入されたことにより成立している〔住所表示の変更について(エクセル・31.5KB) (豊田市ウェブサイト、2012年2月22日閲覧)〕。3大字はかつて自然村(しぜんそん)として隣接しあい、伊那街道に沿う町並みが連続していたことから地縁性も深かったと考えられる。115年余り存続した旧足助村・旧足助町の大字数は最終的に80を数えたが、成立当初の旧足助村を構成していた大字は、この3大字のみである。 信濃国への道筋である伊那街道(飯田街道)は中山道の脇往還として発達したが〔『足助町誌』:295ページ〕、伊那街道を軸に美濃国岩村方面へと向かう美濃街道、尾張国への伊保街道、岡崎に向かう七里街道(足助街道)へも通じる中継地であった足助は、古来より政治・軍事・交通の要衝ともなった。古代には信濃の黒曜石が運ばれ、戦国時代末期には小城下町と呼ぶにふさわしい町並みが形成されており、商家も出現していたようである。江戸時代に入り元禄期頃には宿場町・在郷町としての性格を強く帯びるようになり、足助町(あすけまち)を称するようになる〔『足助町誌』:306ページ〕。宿屋・問屋・馬宿・飲食店などが軒をつらねて人馬の著しい往来を支え、物流の多さと宿場の活況は伊那街道沿いにあって飯田に次ぐ規模を誇ったといわれるが、やがて幕末が近づくと、酒・味噌・紙・油を扱う生産的商人が登場し、中継商業基地としてのみならず地方小商業都市としての性格も帯びてくる〔『足助町誌』:777ページ〕。1878年(明治11年)には郡区町村編制法により東加茂郡が成立し、郡役場が置かれた足助は郡政の中心としての発展を見、繭・生糸・木材・竹材・薪炭などがここに集積する郡レベルでの地方経済・金融の拠点ともなったが、大正時代から昭和時代になるとさらに観光都市としての性格も加わるようになる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「足助町 (豊田市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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